疑いの99%は当人の願望が孕んでいるのかもなぁ、という話。
こんにちは。にのみやいっぺいです。
もう導入文とかはあれなので、いきなり本題に入ります。
ここ最近、僕はふと思ったんですね。
「疑いって、なんやろう?」
と。
そもそも、疑いの発生源ってどこやろう?
そもそも、疑いってなぜ生まれるんやろう?
考えだしたらキリがありません。。。。。
ですが、たぶん疑いの発生源って、正直、誰かの心の中ですよね。
・こうあって欲しいという願望
・こうあるべきという固定概念
これぞ、バイアス・偏見が生んだ賜物だと思うんです。
かくいう僕自身も、ふとした瞬間に他人を疑ってしまうことが、良くあります。
これは、非常に申し訳ないことです。。。(すみません・・・)
要するに、世界観の狭さ・人生観の未熟さ、もっと言えば教養の無さからくるものこそが、疑いの種であると。
少しだけ例を挙げます。
A君とB君という人がいたとします。
・A君のプロフィール・・・先祖代々めっちゃ金持ちで、イケメンで、優しくて、運動神経抜群で、天は何物を与えたんだレベルの子。
・B君のプロフィール・・・A君の真逆。
非常に雑ですが、そこは一旦置いておいてください。
そして両者が日常生活を送る上で、大衆からかけられるであろう、疑いの例を挙げてみます。
【A君】
(実は、みんなを見下してるんじゃない?)
(絶対に親から、甘やかされすぎてるよね・・・。)
(優しいけど、実は男らしいとか、ギャップもありそうじゃない?)
【B君】
(大人しいけどさ、絶対に良い奴だよな。)
(なんか怒ったらさ、やばそうじゃない?)
(絶対、家でダラダラしてるよね、あいつ。)
というような感じですね。
決して気持ちの良い内容ではありませんし、ここではあえて差別的な表現を用いました。
しかしながら、疑いにもプラスな物・マイナスな物があるということは、分かって頂けたかと思います。
そしてこの疑いというものは、
個々人の価値観から生まれる千差万別なものであり、相対する世界観への理解度の低さが生み出し、要するにそれが低ければ低いほどマイナスな疑いが発生してしまう、ということです。
人間の想像力というものは、時に非情で、そして非常に強力な武器です。
あなたの想像力が、誰かにとっての脅威になり得るでしょうし、誰かにとっての助け舟になる可能性をも秘めています。
そしてその世界観の狭さというものは、争い・憎しみを生む起爆剤でもあります。
例えば、進撃の巨人という漫画、あるじゃないですか。
あれって、
自分たちの生活を脅かしていた巨人と戦い、さらには海を越え、異国の民とも争いを繰り返す
めちゃくちゃ大雑把に言うと、こんな内容です。
要するに、「我々こそが一番正しい、我々こそ一番愛に溢れ、清廉潔白だ。」の主張を繰り返し、対立する意見とぶつかっている、ただそれだけですよね。
戦争は決して、許されることではありません。
がしかし、
人間という高度な知能を持った生物である以上、対立は避けられないし、何と何を比べて、一体だれが一番正しいのかは、その時その瞬間の時代・環境が決める
という結論に尽きるかと。
だから僕が言いたいのは、
何か疑いをかけてしまう場合には、しっかりと中身のある議論を、対立を想定した議論をしようじゃないか
ということです。
そしてここまで持っていくには、自分自身への疑いを持つ、という意識も必要ではなかろうか、とも思います。
ただこれをやり過ぎると、120%病みます。僕がそうだからです。
もっと熱い議論を、酒を片手にでも良いから、フリースタイルラップバトルでも良いから。
少々、熱くなり過ぎましたが、平和への近道はこれ、だと信じています。
あらゆる歴史・文化・シーンが象徴している争いへの最適解が、形は変われど、本音をぶつけあった熱い議論。
たまにはブチ切れるけど、仲良くしようぜ。
自戒です。
それではこの辺にて、また次回。
あ、あと、もし良かったらファッションブログの方もチェックしてみてください。
ありがとうございました。